徳川大坂城のナゾ

城マニアなみんを刺激するニュースがキターーーーー!!

 大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した。(読売新聞)

今の大阪城が、徳川時代になって築城されたものであるという話は、最近では良く知られてきたようです。

豊臣秀吉が築城した大坂城は、元和の大坂夏の陣で落城した訳ですが、豊臣時代を忘れさせ徳川幕府の威信を見せ付けるために、盛り土をして埋め立てられ、その上に、さらに大規模な徳川の大坂城が築城されました。

建物はおろか石垣もすべて徳川製。それが現在見ることができる大阪城です。

つまり豊臣時代の大坂城は、丸ごと徳川大坂城の下にすっぽり埋まっていると云う事です。小説の話ですが、万城目学の「プリンセス・トヨトミ」では、この事実をうまくプロットに利用しており、感心したことであります。

現在の大阪城天守閣は、昭和6年に再建されたもので、徳川時代天守台にむりやり豊臣時代の意匠の建物を乗せて、しかし色は違う(豊臣時代は黒)、だけど平成の改装で、回廊の層だけ黒くなった、というヌエ的な建物なんですが、この建物自体が、もはや長い歴史を持つようになったので、それはそれでいいのかもしれません。


山里丸というのは、秀吉の城に特徴的に見られる庭園的なスペースで、大抵、本丸と隣接した低い位置に存在します。大坂城の場合は、本丸の北側に一段下がったところにあり、大坂夏の陣落城の際に、秀頼や茶々たちが自害した場所として知られています。

今回の調査は、その山里丸の遺構が確認されたというものですが、地道に調査が行われているのだねえ、と少し驚きました。

実はかねてから不思議に思っていたのですが、現在の大阪城にも、同じ位置に山里丸が存在します。

先にも書いたように、秀吉の城に特徴的な作りであるし、豊臣氏滅亡の場所でもあるので、埋め立てて作り直した際に、まったく違う作りにも出来たはずなのに、徳川幕府はなぜわざわざ作りも名前も再現したのでしょうか?

現実的な理由としては、極楽橋(この橋の名も豊臣時代と同じでは?)をかけるために、堀の対岸に本丸より一段低いスペースを作る必要があったと。それだけなら他にやり様もありそうだけど、よしんばそれが理由としても、ではなぜ名前まで同じにしたのか。

豊臣色を払拭したかったはずの徳川幕府が、なぜそんな事をしたのかしら。茶々の妹、江与の意向?うーん。