食べ物屋さんのレビュー

結論から言ってしまうと、世の中の味覚に関する意見って、ほとんど当てにならないと思ってます。特にラーメンとカレー(笑)。まあ当てにはしてませんが、参考程度にはしてますよ。

例えば、食べログ等のレビューで、食べたことのある店の評価を見てると、うーんこれは...と納得行かない評価が大勢を占めることもしばしば。

そんな訳で、何か新しいお店を開拓したり、なんて時は、あえて評価のキビシイ店を試してみることさえあるという。やはり、全然イケルじゃん、と思うこともしばしば。

例えば私は、ラーメンに関しては、昔ながらの東京ラーメンと昔ながらの熊本ラーメンで育った、バリバリのいわば古典派ともいえるのですが、そんな感覚が良しとしないお店の方が、逆に今では多い。

単純に云えば、人の好みはそこまで拡散してしまったのだという事でしょう。なんにでもマヨネーズをかけるのが人気ですが、それは勘弁と思う私のような者も沢山居る。

世の中にはグルメマンガと云うジャンルがありますが、その嚆矢である「包丁人味平」が、すでに40年前に、塩味や辛さなどの「個人的な好みの違い」を乗り越えるための方法を模索していました。このテーマは人の好みが拡散してしまった今のような時代にも通じるモノかと思います。

一方「美味しんぼ」のような作品が出てくることにより、「究極のメニュー」「至高のメニュー」のような美味しさの絶対性を問題にするような考え方が広まりました。

しかし同時に、薀蓄など、食についての情報に価値を見出すようにより、それにより情報先行の嗜好が形成されるという事が起こったように思えます。結果、絶対性を求めるという本来の方向性とはうらはらに、やはり嗜好の拡散の一因になったように思います。


味の嗜好の違いは、そもそも是非を問われるモノではないので、各自好きなものを食べていれば良いと思うわけですが、こんな時代には、時代に合わせたレビューのあり方があっても良いかと思うです。

ラーメンの話に戻れば、私みたいな古典派と、イマドキ系の立ち位置自体が違うし、一番重要なのはチャーシューの美味しさなんて言われた日には、もはや「自分は美味しいと思う、思わない」だけでは、レビューとして有効な情報にはなりきれないのかなと。それならある程度自分のスタンスを明確にした上で語ってはどうかと。

例えば、「蕎麦屋では並木の藪が一番好きだ」などの言及があると、評価の軸が見えやすい、とか。


こないだ考えさせられたのが、とある博多ラーメン屋。以前から興味があったのでレビューを見てみると、コクがないとか味が薄いとか、店員の態度が悪い、もう来ることはないでしょう的な散々なレビューが多い。

で、実際に食べに行くと、ごくスタンダードな博多ラーメンのように思われました。普通の博多ラーメンって、そんなに油っぽくないし、わりとあっさり目だと思うんだけど。コレぐらいが普通で、もっとギトギトで濃い味を求めるのは何か違うのではないか?と。例えば同じ博多でも一風堂とかって異色ですよね。熊本ラーメンにおける桂花と同じように、あれが普通というわけではないと思う。

それで、最近の豚骨しょうゆ等、若い人には豚骨ラーメンへの別のイメージがあるんじゃないかしらと思い至り。それは元々博多ラーメンとは違うものだけれど、豚骨という点で括って同じような味を期待してはぐらかされたのではないかなと、あくまで想像ですが思った訳です。まったく的外れと云うわけでもないと思うけどな。

ちなみに、件の博多ラーメン屋、店員の態度が悪い、という点は、運良くそんな店員さんに当たらなかったようです(笑)。

そんなわけで、食べ物の評価のしかたは新時代を迎える時が来た!と思うわけです。少なくとも私があまり穿った見方をしなくても済むようになって欲しいな(笑)。