信仰と派生物

はてなダイアリーはその名の通り日記の体裁を取ってますが、私はまったく日付とは関係なくトピックを書きなぐるという使い方です。特に始めたてと云うこともあり、さっさとはてなダイアリー市民になりたいみんとしては、あえて過去の日付にも新しいトピックを詰め込んできたわけですが、イキオイ過去の日付のトピックはなかなか読んでもらうチャンスが少ないようです。はてなの場合、リンク履歴があるので分かりやすいのだ(笑)。

そんな中、よしてるさん(id:yositeru)から過去日付分へのコメントをいただきました。いやもう良くぞ見つけていただきました。実は他のトピックでもよしてるさんの文章を引用させてもらっているところがあるので、まずはこの場で懐かしい絵文字を使ってお礼をば。m(_ _)m

で、返事を書き始めて、長くなりそうだったのでこちらで書き直すことにしました。はてなビギナーとしてはアレコレ試してみたいので、実験君ということもあり。


リンク元id:min-chang:20041225#c)

キリスト教(この場合はユダヤ教イスラム教も同じですが)の創造者を創ったのは誰か?という疑問を持ったことは、私はありませんでしたねえ。ナゼかと思い返してみると、神の言葉すなわち真実、ソレを無条件に受け入れる事こそがすなわち信仰である、というセンスに早い時期から馴染んでしまったからではないかしら。

その一点において、全ての創造者である神がまず初めに在った、という事をすんなり受け入れることが出来ていたと。これはもう理屈ではないですからね。信仰の前には人知など無力です。というか、そうでなければ信仰ではない。信仰とはそういうモノであると。是非もなし。

この点を含め、私はその教えの内容自体に疑問を持ったことはなかったんじゃないか。前にも書いたように、私が離れてしまった理由は、この厳しさに私はついて行くことが出来ない、と思ったためで、内容への不信感というモノはなかったと思います。

それ故に当時は、私はキリスト者にはならないけれど、いつかキリスト教の予言が成就して地獄の業火で焼かれる日が来てしまうかもしれない、それならそれもやむなしか、とある種の覚悟のような感覚を持っていました。

今に至っても私は特定の宗教を持ちませんが、そのような畏れの感覚は今でも自分の中に在ると思っています。キリスト教に対してだけではありませんが。

進化論云々に関しても同じような感覚で、結局は「聖書に書いてあることと違う」という事実のみが彼らにとっては問題だったという理解です。聖書こそが真実で、それをありのまま受け入れることが信仰、という事ですね。原理主義者としてはもっともな事だと思います。

そして、「これだけ複雑な仕組みをもつ人間や生物には、やはり創造者がいると考えるのが自然」というのは、あくまでその観点から派生した「言い訳」であって、他の点について同じような言い訳*1を私も見聞きしていましたが、そう云うのは正直ニガテでした。それこそ、そんなこと「聖書に書いてない」じゃんか?!とヒソカに思っていたという(笑)。まあ最初に書いたように、それ自体がイヤで離れたということではなかったわけですが。

*1:長髪はイカンとか、ロック音楽やダンスはどうよ?とか。この点でもキリスト教共産主義はやはり似ているのだ、ということも出来るか(笑)。ともかくその手の「現在の世俗的な常識」への従順さを求めるところがウソくさいという感じはありました。