日本語が亡びる時 (3/100)

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

古来から人類は「普遍語」というものを持ってきた。これは学問や科学技術の広まりのために不可欠な条件であったろう。ヨーロッパ人については、長いことラテン語がその地位にあった。アジアにおいては漢語が、イスラム世界ではアラビア語が、同じように機能し、その勢力のなかにある国々での文化交流面でのバックボーンとなっていた。

この本では、商取引での共通語については「普遍語」として取り扱われていない。それはあくまで学問・研究を行い成果を蓄積してゆくための共通基盤ということだ。それにより、多くの知恵や知識が一元的に集積され発展することが可能となる。

そのような状況下、たまたま「普遍語」となった言語が「母語」であった場合を除き、多くの国では「普遍語」と「母語」との二重言語環境となる。それは国民全員が二重言語能力を持つということではないが、それでも「母語」は「普遍語」との関係性を問われることになる。

現代は、政治・経済・軍事的な理由から、実質的に英語がただ一つの「普遍語」となり、数の論理でさらに勢力が拡大されている時代である。

過敏反応を呼ぶトピック?

ここまで私は、ごく大雑把にこの本の前提となる現状の捉え方を書いてみたけれど、この時点でさえ、「異議あり」と思う人は居るかもしれない、と、昨今の楽天ユニクロの社内英語化のニュースの反応をみて思う。

たぶん、社会的に英語と日本語をどう使い分けるか、という問題は、何かを刺激される、センシティブなトピックだと考える人が、少なくないらしい。

実はこの後、著者のたどり着く結論は、とてもタフな内容なのだ。

しかし、さすがに「コーフンする人が出がちなトピック」と分かっているのか、著者は、初めは何の話だろう?というところから始めて、ゆったりとした口調で、丁寧に話を進めてゆく。

普遍語とはなにか

まずは「普遍語」とは何なのか、近代ヨーロッパの中心であったフランス語の栄光を説明することによって、また、いまや「英語ではない」という点において、そのフランス語も、何の世界性も持たない日本語ともはや違わないのだ、と説明する事により具体的な存在感を示す。

詳細な説明を進めるため、著者は「普遍語」「現地語」「国語」の三つを言語に関する要素として取り上げ、定義を行う。これらの概念はここまでにも取り上げられている。くりかえしゆっくりと語るスタイルは徹底している。

人類が文字というものを発見してから約六千年。そのあいだ、人類はほとんどの場合、自分が話す言葉でそのまま読み書きをしてきたわけではなかった。人類はほとんどの場合、<外の言葉> ---そのあたり一帯を覆う、古くからある偉大な文明の言葉で読み書きしてきたのであった。それらの、古くからある偉大な文明の言葉は、地球上のあちこちにいくつかあった。
それが本書で言う<普遍語>である。(p105)

これは「普遍語」の定義。その文明の中心となる、「読まれるべき言葉」の集積の結果。人類の叡智が蓄積された「図書館」。

現地語と国語の関係

ところで、現在ではナショナリズム論の古典となっている「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)という本があります。ミーもむかし読みましたよ。この本でも取り上げられていますが、内容は国語と国民文学とナショナリズムの結びつきの成立について。その核心を一言で要約すれば次のようになるとしている。

「国家は自然なものではない」

言語について言えば、たとえば、国語も自明なものではなく、今となっては当たり前のように使っている日本語は、いくつかの歴史的条件が重なって生まれたものでしかない、ということです。

この成立の経緯を、「想像の共同体」を援用しつつ、本書では以下のように説明しています。

    1. それまで「ローカルな言葉」がヨーロッパに数多く点在していたが、印刷技術の発明と資本主義の発達により「出版語」が発生。「出版語」とは、書き言葉に昇格した「ローカルな言葉」。
    2. 本が「大量生産工業商品」として利潤を生むためには、ある程度の規模が必要。つまり出版語の数は制限される。
    3. ヨーロッパ全土で数限りなくあった「ローカルな言葉」が、英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、イタリア語、スペイン語ポルトガル語チェコ語デンマーク語、ロシア語など、いくつかの重要な出版語に吸収されていった。
    4. そしてそれらの「出版語」をヨーロッパで地域別に何百万という人間が共有するうちに、アンダーソンが「想像の共同体」と呼ぶ、国民国家の基礎が出来ていった。
    5. さまざまな「出版語」が<国民国家>の言葉として固定されていくうちに、人間には、同じ言葉を共有する人たちとは同じ共同体に属する、という想いが生まれてくる。すると、ナショナリズムが芽生えてくる。
    6. このナショナリズムを育むのに大きく貢献したのが、新聞などの出版物であり、さらには、ほかならぬ<国民文学>である。

このうち、「ローカルな言葉」が「現地語」であり、理論的に言っても、歴史的に言っても、「普遍語」と対になりつつ対立する概念である。「現地語」とは、「普遍語」が存在している社会において、人々が巷で使う言葉であり、多くの場合、それらの人々の「母語」である、との説明が本書にはあります。

一方「国語」とは、国民国家の国民が自分達の言葉だと思っている言葉、であり、国民国家が近代的な概念であるように、国語も近代的な概念である、とあります。

<国語>とは、もとは<現地語>でしかなかった言葉が、(普遍語からの:引用者注)翻訳という行為を通じ、<普遍語>と同じレベルで機能するようになったものである。

より詳しくいえば、もとは<現地語>でしかなかったある一つの言葉が、翻訳という行為を通じ、<普遍語>と同じように、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負わされるようになる。その言葉が、<国民国家>の誕生という歴史と絡み合い、<国民国家>の国民の言葉となる。それが<国語>なのである。(p133)

英語の世紀・日本語はどうなるか

著者は、現在は英語の世紀である、しかも、インターネット技術の登場により、当分その地位は揺るがないだろう、と断言し、今後必然的に、学問や研究の成果が「普遍語」である英語へと集約されることを予見する。

すでに自然科学はすでに英語に一極化されていると著者は言い、さらにシームレスに社会科学、人文科学へと、緩慢に、しかし確実に学問のなかで広がっており、それがいつしか学問の外の領域へと広がらない理由はないとする。

著者は、しかし文学は?と、その点にこだわりを見せる。

多くの読者を求めるという点では、やはり「普遍語」へと向かうだろう。しかし、日本語は「現地語」から高度な機能を持つ「国語」へと進化し、国語の祝典である<国民文学>の奇跡的な成果を有している。

日本の「国語」が生み出した近代文学をはじめとする書き言葉のおもしろさ、たどり着いた高みを、著者は得がたい物と信じ、そして他の言語では置き換えられない唯一のものとして、心から大切に思う。

圧倒的な「普遍語」の影響の前に、四半世紀後、五十年後、百年後、日本でも文学は英語で書かれるかもしれない。それ以前に、果たして人は真剣に日本語を読もうとするであろうか。という著者の不安。少なくとも、日本が残した文学、それを読む力、もっとはっきり言えば、味わう力を失くしてはいけないと訴える。

文学がなくなっても、日本語は残る。それは事実だけど、もはや小説家まで英語で書き始めるなんて頃には、日本語から「知的、倫理的、美的な重荷」はとっくに失われているはずで、日本語は、今私たちが知っている日本語とはまったく違う物になっていることだろう。

Time Is Up...

ああもう、もっと書いておきたい事があるけど、もはや十分長すぎ。もっとコンパクトにまとめたいけど、備忘録も兼ねてるからしようがないのか?!とりあえず、本は明日図書館に返却するので、ここでタイムリミット。ピー。

なにしろ示唆に富んだ本で、私はいろいろと新しい発見があったです。文中で言及される事の多い漱石は、私は二十歳ぐらいの頃に読破しましたが、やはりと云うか当然と云うか、読みが浅い部分がいろいろと露呈(笑)。まずは、「三四郎」を読み返す気、満々です。


とりあえず、今後のために、書き残した主要ポイントを書き出し。

英語の世紀に入ったということは、国益という観点から見れば、すべての非英語圏の国家が、優れて英語が出来る人材を、十分な数、育てなくてはならなくなったのを意味する。
そして、その目的を達するに置いて、原則的に考えれば、三つの方針がある。あくまで、原理的に考えればの事ではあるが。

    1. <国語>を英語にしてしまうこと。
    2. 国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
    3. 国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。

現在、日本政府はどのような方針をとっているか....遺憾ながら、危機感の不足と、勇気のなさと、頭の悪さから、無策という策である。(p267-268)

(7/7/2010 追記:諸々の理由から、著者は、国策として3を選ぶべきだとしております)

「西洋の衝撃」を受けて以来の、日本語が果たして人間が使うのに正しい言葉なのかという自信のなさ。その自信のなさをいやましに深めた西洋から輸入された「表音主義」。その「表音主義」を前提とした戦後の国語教育が知らず知らずのうちに浸透させていった、<国語>など自然に学べるものだという思い---さまざまな要素が幾重にも重なり、いくら口では綺麗ごとを言おうと、日本人は本気になって「日本語を大切にしよう」とはしてこなかったのである。(p309)

(7/7/2010追記:本書を読み、国語教育について、世間では妙なことを言う人がいるなあ?!と思っていたアレコレの根が「表音主義」にあることに気づきました。ローマ字表記とかかな表記とかもその表れですが、同音異義語の尋常ではない多さや、漢字・かな・カナの使い分けによる意味の違いなど、文化としての日本の「書き言葉」を失くしてしまう事は不可能でしょう。またそれが日本語ならではのおもしろさの理由である事も重要。他言語の人には想像も出来ないだろうけど)