西洋の音、日本の耳

以前に、西洋音楽の調性感というものが、その文化の中にあってはじめて有効だと思う事について、このように書いたことがあります。

調性という概念自体が西洋古典音楽のモノなので、この場合まずは音階で考えることになりますが、民謡などは短音階であっても感情を決定する要素にはなっていないと思えます。楽しく短音階だったりする(笑)。 そのような意味で、もし室町時代の日本人にマイナーコードの西洋曲を聞かせても、悲しいという感情を喚起するとは思えないんです。全く別の音律の、不思議な合奏音楽という感想になるのではないかしら。

音楽学生時代に調べ物をする中でこのような考えに至った訳ですが、そうは思っているものの、自分自身が体験したことでもないので、どこかに良い資料がないかしらと思っていたら、こんな本があることを知りました。

西洋の音、日本の耳―近代日本文学と西洋音楽

西洋の音、日本の耳―近代日本文学と西洋音楽

帯には「幕末維新、明治の人たちは西洋音楽をどう聴いたか」「洋楽受容にみる日本近代化論」などとあります。をを、まさにこれだよ、私が求めていたのは!とばかりに即購入して読み始めたのですが、これが実に広く丁寧に資料に当たったと思われる労作でありました。

内容は、
第一章 幕末維新期の人々と西洋音楽
第二章 島崎藤村西洋音楽
第三章 上田敏西洋音楽
第四章 永井荷風西洋音楽
第五章 石川啄木西洋音楽
付録 明治文壇とヴァーグナー

となっていますが、今回の場合、興味の対象はやはり第一章です。ここでは、万延元年遣米使節団、明治四年に出発した岩倉使節団での記録や個人の手記などから、西洋音楽に接した際の記録が数多く紹介されています。また最終部には特に成島柳北を取り上げてその音楽体験を追っています。

これで印象に残るのは、万延元年の使節団のみなさんが、ほぼ素の状態で洋楽に接して、ただウルサイだけとか、聴くに値しないとか、歌うさまがこっけいで笑いを禁じかねる、というような反応を示していることですね。日本の音楽のほうが全然イイ!と。しかし、中にはそこそこ面白いと思っている人も居たりして、興味深い。

ただしこれ以降、日本でも洋楽を聴く機会が増え、十余年後の岩倉使節団の時では、かなりみなさんの洋楽へのなじみ具合が違います。この時期、急速に西洋音楽が浸透していったという事がよくわかる。第二章以降は、明らかに西洋音楽に対する感覚が今に近いものになっている、という環境が出来上がっているようです。ただし今と少し違うと思われるのは、日本の伝統音楽環境と共存していることが見える点です。

こうして読んでみると、やはり西洋音楽が特別普遍的であったという事はなかったと。しかし浸透するのも早かった。音に対する感受性というのはけっこう保守的なモノだと思うので、これは驚きです。

ところで、この本はなかなか面白いのですが、読むのはかなりシンドイです。というのも、本の性質上、引用文がかなり多いのですが、引用されている文章は原文のままで、基本的には著者による要約というのもほとんどありません。たとえばこんな感じ。

......巳牌船上音楽ヲ奏ス<晴天ノ節ハ毎日奏ス>。怒濤舟上ニ飛騰スルニモ管セズ悠々タリ。是ヲ聞キ心中相和ギ船中苦難ヲ忘ル。古昔楽ヲ以テ人心ヲ和ゲシトカヤ、胡楽ヲ聞キ尚如此、況ンヤ正楽ヲ聞クニ於テヲヤ。楽ノ捨ツルベカラザルコト是ニ於テ知ルベシ。

他にもほとんど漢文みたいのや、かなり後の時代になってからのものでも、スラスラと読むにはちとツライものが多くて、この手の教養に欠けていることを痛感いたしましたよ。