「他生」の縁

袖振り合うも多生の縁、という言葉があります。これは道端で袖が触れ合うだけの事であっても、前世来世でのつながりから起こったことであり、すべては偶然ではないのだという仏教の言葉です。因果応報ってやつですね。

勘違いとして多く広まっているのが、「多少の縁」というやつで、道端で袖が触れ合ったのも何かの縁だ、めぐり合いは大事ね、的ニュアンスのもの。まあありがちですね。多生と多少の誤用。気持ちはわかります。

もうひとつ、「他生の縁」というのもあります。これは「多生の縁」から派生した言葉だそうで、やはり「多生の縁」が本来の言葉だそうです。それぞれ仏教用語で「多生」は多くの生を繰り返すこと、輪廻転生ですね。「他生」はやはり輪廻転生の中で、前世とか来世とかの、今とは違う生のことのようです。昨日調べて初めて知りました。

昨日?そうです昨日。それまでの10年ほどの間、私は「他生の縁」という言葉をまったく違う意味だと思っていました。

それは、あるとき読んだ本にこのようなことが書かれていたからです。以下大意。

袖振り合うも他生の縁という言葉があるが、広く認識されているような、袖が触れ合うことにも何かの縁があるためだという理解は間違っている。他生とは仏教用語で仏縁に全く縁のない人、縁なき衆生のことである。つまりこの言葉は、たとえいくばくかの接点があったとしても、本来はまったく自分の生とは関わりのない事であるという意味である。

どうです、あまりに違うこの内容。しかしその著者の自信たっぷりな物言いに、私はすっかりそういうものだと自分の認識を改めたのでした。念のためにウラを取るぐらいの事はしたっていいもんですが。とにかく、それ以来おおむね10年ほど、世の中の「誤用」に胸を痛めてきたという(笑)。

それがなぜ「昨日」正しい意味が発覚したかというと、新しい朝ドラ「だんだん」の初回を観て、テーマ曲の最初の歌詞が「袖振り合うも多生の縁」だったからです。ああまた誤った使い方を、と胸を痛めた私は、しかし今回は念のため意味の確認に走り、その結果上記のような情報を得た、と。

それにしても、まったく記憶にないのですが、アレは誰のなんと云う本だったんだろうか?今回調べてスゴイと思ったのは、ひとつも同様の説にお目にかからなかったこと。誤用にしても、それなりに同趣旨の意見があってもいいかと思ったのですが、よっぽど異端だったのか。そしてそんな主張を長い間信じ込んでいたんだな。ある意味スゴイ(笑)。