音と音楽と文化

よしてるさん(id:yositeru)との以前のやりとりから。以前から私がなんとなく思っていた事をば書いてみました。元々は、和音進行の感覚とかオルガヌムの話からの流れです。

どうして、和音にはある特定のイメージを呼び起こす作用があるんでしょうか?

質問の意図はものすごく分かるし面白いポイントだと思うのですが、それがなぜかは私には分りません。以前「そういうもの」だと答えた私は、真剣にそう思っているわけです。

そもそも音楽における理論ってナンだ?って話があるんですが、まず確実に言えると思うのは、物理の原理などとは全く別の、個人の感覚・経験則に基づいたセオリー集に過ぎない、という事です。

ここでのよしてるさんのギモンは、さらに根源的なもので、なぜ人類は完全五度を協和音程として感じるのか、っていうのと同じぐらい、音楽を超えているように思えます。

たぶん、こういう事って、音響心理学、とかそういう学問が研究をしているのでしょう。もっとも、音楽が音を素材としたものである以上、音楽に関わる者は音自体の効果にはみな目を向けていると思うのですがね。ただ、その音楽的なアプローチはやはり、原因の究明より、現象の探求のほうに向けられていると思います。

一方で、マイナーのコードがなんで悲しいイメージを想起させるのかは、わからないのです。でもたしかに悲しくなってしまう。不思議だ・・・

同じような結論になってしまいそうですが、ただ、特定の響きが想起するイメージに関して私なりに理解しているのは、どうも人類普遍の現象ではなさそうだ、という事です。

おそらく、「マイナーのコードが悲しいイメージを想起させる」文化圏に住んでいる人達限定の現象なのではないかというのが私の考えです。文化がそのような感性を育てた、という事です。

現代においては、地球上の多くの地域が「西洋古典音楽体系」に組込まれてしまっているので、ある意味ではもはや普遍的な現象であるのかもしれませんが、やはり今でも違う音感覚をもった地域・民族はありますし、私としては、時間軸をはずして考えてみるのもいいかと思います。

例えば、まだ調性という概念が出来る前のヨーロッパ人に、マイナーな曲を聞かせてみるとどうなのよ?とか。中世やルネサンスの音楽を聴くと、やはりそう思えてしまう。

同じように、調性という概念を持たなかった日本人の場合はどうでしょう?

調性という概念自体が西洋古典音楽のモノなので、この場合まずは音階で考えることになりますが、民謡などは短音階であっても感情を決定する要素にはなっていないと思えます。楽しく短音階だったりする(笑)。

そのような意味で、もし室町時代の日本人にマイナーコードの西洋曲を聞かせても、悲しいという感情を喚起するとは思えないんです。全く別の音律の、不思議な合奏音楽という感想になるのではないかしら。

逆の例を考えてみましょうか。
先も書いたように、現代の日本人は音楽的には、これがすっかり普遍的な姿だと錯覚を起こしてしまうぐらい西洋文化を基準としています。ここで言っているのは、何をもって音楽の基準と考えているかです。音階、和音、リズム、すべてにおいて西洋のモノが規範です。

そんな私たちが、たとえば非西洋体系的な音楽を聴いた時にどんな感情を持つか思い出してみて下さい。インド音楽、なんていいかもしれませんね(笑)。日頃の世間の反応を見ると、あの中に喜怒哀楽を思える人がどのぐらい居るのか、かなりギモンですが。

また、和声というのは「西洋音楽の急所」でもあります。西洋人の音楽に対する哲学思想がここに顕在化したとも言えるものです。

同様に、アフリカ音楽はリズムが急所です。たぶん私たちが思いもしていなかった事が、アフリカではリズムだけで表現されているのです。

間違えやすい所ですが、単に「複雑な」という意味では有りません。あくまでそれ自体が音楽の価値を決定する哲学を持っているというべき部分というべきでしょうか。

たとえば、西洋音楽が和音で悲しみを表現できるように、リズムで悲しみを表現できる体系もあるんだよん、ってことです。もっとも、私はアフリカ音楽に明るくないので、この例自体は私の思い付きですが。

上記の二つの「音楽」は、もはや別の価値体系に支えられた別のモノであると私は考えています。そして、それはこれら二つだけではありません。その意味では、音楽に国境はないなどと、私は必ずしも思いません。

かように音楽とは相対的なもの*1であり、それは文化によるところ大であると私は思っているわけです。

とは言うものの。

でもなんかしっくりこないんです。例えば、「泣き声を音符化すると、実は短調になっているんだ!」(でたらめ)なんてことがわかると、しっくりくるんですが。

イメージの想起とは別に、このような点で人類普遍の感性がないわけではなさそうです。私の知っている限りでは、たとえば最初に書いた完全5度を共和音と感じる感性。

洋の東西を問わず、ハーモニーというのはおよそ完全5度、もしくはその展開形である完全4度から発展しているようです。

前に書いたオルガヌムもそうですね。仏教の声明なんてのもそうです。あれは調性感はおろか和音への感覚も未発達な段階で、「違う音」でなんとなくやったら自然に5度ハモりになっている、って奴ですね。

それをきっちり完全5度という音程である事を認識して、さらに3度重ねの和音という音体系を発達させた西洋人と、そうでなく、なんとなく声を出して協和するように、って感覚のままだった東洋人の差も興味深いところです。

そう言われてみれば、たしかにそうなんですよね。「マイナーコード=悲しい」というような感覚は、人類普遍ではなく、文化に影響された結果だろうは身近にも感じたことがあるんですよ。

何かのTV番組で、日本人と西洋人が参加する何かのお祝いの宴会の様子を映していました。そこで日本人が「東京音頭」を歌ったんです。

そしたら、外国人がちょっと怪訝な表情をしていたわけです。なんで怪訝な表情をしていたのか断定はできませんが、「なんで、こんなめでたいときにこんな短調の曲を?」なんて思っているのでは、と思いましたよ。

東京音頭。あれは基本的にトラディショナルな日本の作風に沿ってますよね。昔から日本にある音律にもいろいろ有りますが、音階の2番目の音で始まったり終わったりするのは特徴といってよいと思います。

だから最後など、西洋の和声を合せても、ヘンなカンジでしょう?すっきりとトニックで終われない。終止感が弱いんですよね。まだ次に何か続きそうな気にさせる(笑)。

日本の音律と西洋の和声のと合体という点で面白い例があります。君が代」の吹奏バージョンを思い出してみて下さい。あの編曲を考えたのは、明治の頃軍楽隊の教師として来日していたドイツ人だったと記憶しておりますが、真ん中は西洋スタイルに合せる事が出来たんだけど、最初と最後は西洋の和声では処理できなかったので、ユニゾンで処理する事にしたわけですね。

これは、あの音律が西洋の和声体系に合わなかったために考え出した苦肉の策であるわけです。

私がこれを知ったのは「日本和声」に関する本を読んでなのですが、この著者によれば、出だし終わりだけでなく、現在の西洋的にハーモナイズされた部分も日本的な和声に直すべきだ、なんて主張してました。国を代表する音楽なんだからって。まあ、それは分かるなあ。

著者が言うところの日本的な和声ってのは、西洋の体系から外れた、4度重ねの和音です。ドビュッシーとかが使ってますね。

ところで、「音響心理学」のわかりやすく親しみやすい本って、ご存知ないでしょうか?そちらにも興味が出てきました。

うーん、これは私もちゃんと読んだ事がないので、不明です。が、私も興味が出てきたので、調べてみます*2

*1:ここで言っているのは、ある音の動きや組み合わせによって想起されるイメージ、のような事です。対して、ある「ひとつの音」が喚起するプリミティブな音への感動、というモノには絶対性があるのかもしれないと考えています。

*2:といいながら、そのままになってました(笑)。で、調べてみたらどうもソレっぽいのが見当たらずで、英語だけどこんな本がありました(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/3540650636/250-6411090-6404226)レビューをみるとイイ感じですが、大変そう(笑)。